一万円札などの現金は中央銀行が発行するお金です。 現金は私たちにとって身近なお金ですが、流通量は預金と比べるとはるかに少なく、地球全体で(あるいは日本全体でも)1割ほどしかありません。 企業はほとんど全てのお金を預金の形で持っています。 個人でも給料は預金として振り込まれ、必要な分の現金以外は預金のままにしておく人が大半でしょう。 流通している現金は意外と少ないのです。 昨今では預金に紐づくクレジットカードや電子マネーでの買い物が流行っているため、現金の割合は今後さらに下がっていくかもしれません。
【補足】厳密には政府が発行する100円玉等の硬貨も現金に含まれますが、硬貨は全体の中でごく僅かなので本サイトでは考慮しません。
現金を考える上で重要なことは、現金は既に流通している預金の一部が交換されたもの、だということです。 私たちが銀行のATM等から預金の一部を引き出すと、その分の預金が減って現金が手に入ります。 逆に現金を銀行に預け入れると、その分の現金が減って預金が増えます。 これらの行為はお金の種類を変えているだけなので、「お金の利用者」全体のお金の量は変わりません。 この点は、貸出や返済によって利用者全体のお金が増減する預金とは決定的に異なる性質です。
銀行は、利用者からの現金引き出し(=預金との交換)にいつでも応じられるようでなければなりません。 そのため、銀行は一定の現金(あるいは準備預金)を常に確保しておく必要があります。 通常は準備預金制度によって、民間銀行は利用者の現金引出に備えた分のお金を確保できています(参照:1-2. 【参考】預金の発行プロセス)。 利用者の現金引出要求に対して、銀行のATMに十分な現金があれば、そのまま現金が利用者に渡ります。 十分な現金が無ければ、その民間銀行は中央銀行に積んでいる準備預金を現金に交換し、その上で利用者に現金を差し出します。 もしも十分な現金も準備預金もなければ、中央銀行は当該民間銀行に準備預金を供給します。
現金は誰かが預金を下ろすことで「お金の利用者」の世界にもたらされるため、現金に先行して預金が無ければなりません。 私たちは現金を、お釣りとしてもらったり友人等から借りたりしますが、その現金の元を辿ると、必ず誰かがATM等から引き出した現金に行きつきます。 現金は私たちにとって非常に身近なので普段は意識することもありませんが、現金が中央銀行から「直接」お金の利用者に届くことはありません。 お金の利用者が、既に持っている預金の一部を引き出す時にのみ、現金が民間銀行経由で供給されてきます。 つまり「はじめに預金ありき」であって、現金は預金の一部が事後的に交換された姿に過ぎません。
【補足】景気に関する議論で「中央銀行がもっと現金を刷って、ばら撒けば良い」とよく言われます。 しかし上記のとおり、誰かが預金を下ろそうとしなければ、現金は「お金の利用者」の世界に来ません。 もし中央銀行が必要以上の現金を強引に発行しようとしても、お金になる前の紙切れが誰にも使われないまま金庫に積み上がるだけです。 そもそも中央銀行は現金の発行量を直接コントロールできません。 確かに中央銀行はベースマネーを構成する現金と準備預金を発行しますが、このうち発行量をコントロールできるのは準備預金だけです。
現金の発生から消滅までの過程は次のとおりです。 まず銀行からの貸出という形で誰かの銀行口座に預金が発生します。 それによって「お金の利用者」全体のお金が増えます。 その預金がそのまま流通し、どこかの段階で誰かが引き出す(=預金を現金と交換する)ことで初めて私たちの世界に現金がもたらされます。 現金は預金の一部が交換されたものに過ぎないので、この時点では利用者全体のお金の量は変わりません。 その現金が少ないながらも流通し、やがて誰かが手元に届いた現金を再び銀行に預け入れます。 これにより利用者の世界からその分の現金が無くなりますが、当該利用者は同額の預金を得るため、この際にも全体のお金の量は変化しません。 つまり、最初に「お金の利用者」の世界に来るお金はすべて預金であり、その一部が後から交換されたものが現金というお金です。