前節では、日本の企業が世界的に見て特殊であることと、それを活かした戦略について述べました(参照:4-6. 会社員債券)。 ここでは参考情報として、いわゆる日本型企業の成り立ちについて触れます。
日本がバブル真っ盛りの頃、世界中の識者が日本の企業を「日本型企業」「日本型経営」と言って持て囃しました。 その特徴は、終身雇用、年功序列賃金、企業別労働組合などの仕組みで、従業員が企業に忠誠を誓うというものです。 この日本型企業は一体いつ、どのように誕生したのでしょうか。 よく、日本は先の戦争の敗戦によって生まれ変わり、その過程で日本型企業が誕生した、といった説明を見かけます。 あるいは、日本型企業の原型は江戸時代の藩や家の制度である、と更に過去に遡る説もあります。 しかし、どちらも間違っています。 日本型企業の原型は戦時中、1940年頃に人為的に構築された仕組みです。
日本型企業の基礎は、戦時下にあらゆる資源を軍需目的に集中させる、いわゆる「総力戦体制」構築の一貫として生まれました。 この体制は1937年から1945年にかけての僅かな期間に形作られ、日本型企業を含めたその仕組みのほとんどは今なお現存しています。 なお、この考え方は野口悠紀雄「1940年体制 さらば戦時経済」に詳述されていますが、必ずしも経済史の主流とは言えません。 しかし、以下の理由から筆者はこの考え方を支持しています。 第一に、著者はただの経済学者ではなく、日本を実質的に牛耳ってきた組織のインサイダー、つまり旧大蔵省出身の経済学者です。 第二に、この主張を裏付ける現実の法律や数値データが多数存在しています。 以下は、総力戦体制の形成過程を同書の内容を基に時系列で展開するものです。 なお上図は、このうち日本型企業の形成に寄与した内容のみを筆者が抜粋して図式化したものです。
1937年、日中戦争が勃発すると、近衛内閣は統制三法を制定しました。 「臨時資金調整法」によりお金を統制し、「輸出入品等臨時措置法」により物を統制し、「軍需工業動員法的用法」により、国家が軍需品工場を管理するようになりました。 1938年には、より完全な総動員体制の確立を目指して「国家総動員法」が制定されます。 これにより、総力戦遂行のために政府が日本中のあらゆる物資や労働力を動員できるようになりました。
【補足】国家総動員法(第1条):戦時二際シ国防目的達成ノ為国ノ全力ヲ最モ有効二発揮セシムル様人的及物的資源ヲ統制運用スル
同じころ、「産業報国連盟」が設立されます。 当時の日本の各企業は、経営者と従業員が力を合わせて軍需生産を増強するため、労使双方が参加する「産業報国会」を一斉に結成していました。 連盟は、産業報国会設立を勧奨する中央機関として設けられました。 注目すべきは、これを機に産業別の労働組合が解散させられたことです。 産業報国会は戦後の企業別労働組合の原型です。
1939年以降は、国家総動員法に基づく様々な勅令が制定されます。 1939年、「賃金統制令」が制定され、政府が企業の従業員の賃金を決定するようになりました。 その範囲は初任給から昇給額にまで及び、原則として賃上げは許されませんでした。 ただし例外として、従業員全員に対する一斉昇給のみが許されました。 この過程で、年功序列賃金、終身雇用、定期昇給といった仕組みが定着します。
同年、「会社利益配当及資金融通令」が制定され、企業の株主への配当が規制されます。 翌年には「企業経理統制令」が制定され、配当規制がさらに強化されると共に役員賞与も規制されます。 こうして、本来企業の所有者たる株主はどんどん「弱く」させられました。 同時に、経営者は外部の経営専門家ではなく、企業内の昇進者が務めるようになりました。 こうして、日本ではサラリーマン経営者が主流となっていきます。 日本企業は株主の利益のための組織から、従業員の共同体へと変質したのです。
1941年、「重要産業団体令」が制定され、業界ごとに「統制会」が結成されます。 これはいわば業界別のカルテルで、これを通じて官僚が会員企業を統制しました。 統制会は戦後「業界団体」となり、業者行政の道具となります。 また、統制会の上部組織は戦後すぐに「経団連」となり、今日に至ります。
1942年、「金融統制団体令」が制定され、日銀を中心とする「全国金融統制会」が設立されます。 これにより、大規模な共同融資が可能になりました。 また同年、「日本銀行法」が改正され、日銀を頂点とする金融統制体制の完成を見ます。 これらの過程で、日本の金融制度は株式市場から資金を調達する直接金融から、銀行を中心とする間接金融に大きく転換します。 なお戦争末期には、株式市場を通じた資金調達はほぼ無くなり、銀行融資が100%近くを占めるようになりました。
【補足】旧日本銀行法(第1条):日本銀行ハ国家経済総力ノ適切ナル発揮ヲ図ル為国家ノ政策ニ即シ通貨ノ調節、金融ノ調整及信用制度ノ保持育成ニ任ズルヲ以テ目的トス
1943年、「軍需会社法」が制定され、軍事に関係する製造業者が「軍需会社」に指定されます。 当該企業の代表者は公務員となり、国の指揮命令で増産を行うようになりました。 経営者は株主に対して利益の責任を負うのではなく、官僚に対して生産目標の責任を負う存在に変質しました。 企業はもはや株主のものではなくなったのです。
1944年には、「軍需会社指定金融機関制度」が制定され、軍需会社の「指定金融機関」ができます。 同機関に対しては政府や日銀、他金融機関も協力し、軍需会社への資金供給が保証されるようになりました。 その後、この仕組みはさらに拡大され、1945年には非軍需会社も含めて2000以上の企業に、それぞれの資金ニーズを満たす銀行が割り当てられるようになりました。 銀行が作るお金は、主に主要製造業に振り向けられました。 これが戦後の金融系列グループやメインバンク制の始まりです。
1945年に日本は敗戦を迎えますが、それまでの僅か数年間で、日本は戦前の資本主義国から、総力戦体制を敷く国家に様変わりしました。 特に注目すべきは企業組織の激変です。 自由に利益を追求する戦前の民間企業から、政府の計画に基づいて成長の最大化を図る、高度に統制された軍需会社に様変わりしました。 株主の権限は徹底的に取り除かれ、官僚が企業を支配しました。 彼らが生産目標や人材を含めた各種資源の配分先を決め、産業別の統制会を通じて各企業に配分しました。 そして経営者と従業員は一致団結し、軍需生産の最大化に邁進しました。 これこそが今なお残る日本型企業の原型です。