ここまで、会社員は間接的に株主のために働くことを見てきました(参照:2-7. 労働のピンハネ)。 それでは、会社員とは奴隷なのでしょうか。 ここでは比較のために、今から2000年以上前の紀元前に、史上最大の奴隷制度が敷かれていた古代ローマの奴隷について考えます。 なお、本節内の古代ローマの奴隷に関する内容の大部分は、マルクス・シドニウス・ファルクス「奴隷のしつけ方」を参考にしました。
古代ローマには、主にローマ市民である自由人と、自由人に仕える奴隷がいました。 市民と聞くと、さも現代の一般的な会社員に相当するかのように誤解しがちですが、彼らは現代でいえば資本家に相当します。 ローマ市民は生きるために労働する必要がなかったからです。 現代の会社員に相当するのは、市民のために働かないと食べていけなかった奴隷の方です。 奴隷制は当時の社会基盤であり、奴隷がいなければ社会そのものが機能しませんでした。 それほど、奴隷制は存在していて当然と見なされる制度だったのです。
奴隷には人権がなく、名前さえも主人から与えられました。 しかし、事実上の財産を持つことができ、奴隷同士の事実婚も多く認められていました。
田舎の奴隷は農地で重労働に従事し、都会の奴隷は家の中であらゆる仕事をしました。 古代ローマの家族は、主人を中心に、その妻、子供たちといった自由人と、住み込みで彼らに仕える奴隷たちとで構成される「ファミリア」でした。 ファミリアの奴隷は、掃除や洗濯など面倒な仕事を全て行います。 門番や時報係といった簡単な仕事を担当する奴隷や、医師や会計士といった高度で知的な仕事を担当する奴隷もいました。
奴隷の大部分は、戦争捕虜か、奴隷の子供です。 極少数ですが、多額の借金のために奴隷となった元ローマ市民もいました。
女奴隷の仕事は、主に家事と子供を産むことです。 女奴隷の子供もまた奴隷であり、それは主人と女奴隷との間の子供であっても同じでした。 哲学者セネカは、いちばん良い奴隷はファミリア内で女奴隷が産んだ子供だと述べています。 生まれた時から奴隷であれば、戦争捕虜とは異なり最初から奴隷以外の暮らしを知らず、奴隷であることに対する不満を持ちにくいからです。
奴隷を持つことは、現代の感覚でいえば便利な家電を持つことと同じです。 奴隷は人間というより、主人のために働く、しゃべる道具に過ぎませんでした。 奴隷はそれほどに身分が低い存在でした。
奴隷は奴隷市場で売られていました。 価格は奴隷によって様々でしたが、奴隷は総じて高価な資産でした。 お金持ちが見得を張るためだけに多くの奴隷を買うこともありました。 ローマが戦争に勝つと、戦争捕虜としての奴隷供給が増えるため、奴隷の価格が下がりました。 いずれにしても奴隷は高級品であり、買われた奴隷は主人と同じ家で暮らすことになるため、食費等の維持費がかかります。
奴隷の扱いは主人次第でしたが、体罰は日常的なものでした。 しかし、酷い目に合わせてばかりではありませんでした。 あまり痛めつけると、高価な資産である奴隷が疲弊してしまうからです。 そのため、主人は奴隷を使い潰さないように、奴隷に対して疲労を回復させるための休息や余暇を与えました。 また、奴隷にやる気を出させて、効率良く働かせる必要がありました。 賢い主人は、奴隷に事実上の家族をもたせ、家族を人質にすることで奴隷をより効果的に働かせたりもしました。 主人にとって奴隷の逃亡は大きな問題でした。 しかし、奴隷に子供が生まれれば、その親は逃亡できなくなります。 奴隷に子供を産ませるメリットはそれだけでなく、子供もまた奴隷となるため、主人としてはより若い奴隷を確保でき、ファミリアがより充実します。 しかもその奴隷は最初からファミリアの一員であるため、お金で買った奴隷よりも安心です。
古代ギリシャ人は、人間は本質的に自由人と奴隷に分かれると考えました。 万学の祖アリストテレスは、優れたギリシャ人が、劣った存在である奴隷を所有することは自然なことだと述べています。 一方、古代ローマ人は奴隷制度を社会慣習として捉えていました。 その理由のひとつに、解放奴隷の制度があります。 古代ローマでは、奴隷は一定の条件で合法的に解放され、ローマ市民になることができました。 つまり、奴隷は一時的な状態に過ぎなかったため、古代ギリシャに見られるような人種での区別が意味をなさなかったのです。
この解放奴隷の制度は注目に値します。 農地の奴隷ではなく、主にファミリアの奴隷の話ですが、彼らは主人の意向で解放されることがありました。 概ね5~20年くらいの労働を終えると解放されました。 元主人は解放奴隷の第二の人生を支え、多くの解放奴隷はそのことに感謝しました。
当然、多くの奴隷は解放を切望しました。 主人はこの解放をエサに、奴隷のモチベーションを上げることができました。 一般的な解放は主人の遺言によるものでしたが、一部の奴隷は自由を得るために大金を払い、奴隷から解放されました。 主人はそのお金でまた新しい奴隷を買えるのです。 解放された奴隷の中には、元の主人よりお金持ちになった者もいました。 解放奴隷の多くは、やがて自分も奴隷を持ち、彼らに酷く当たりました。 また、お金持ちになった解放奴隷の多くは、その富を周囲にひけらかしました。
古代ローマの奴隷について興味深い点がいくつかあります。 一般に高価な資産であったために意外と主人から大事にされていたこと、仕事の種類が大変多く医師や会計士等の専門職も奴隷が担ったこと、家族を事実上の人質にされて一層働かされたこと、子供も自動的に奴隷となったこと、そして何より、彼らの一部は合法的に解放されてローマ市民にさえなったことです。
現代社会では奴隷制は違法ですが、今でも無償で労働を強要されている奴隷は存在しており、その数は古代ローマ時代の奴隷をも上回っています。 しかし、ここで比較対象として注目したいのはその種の現代奴隷ではなく、一般に会社に勤めて給料を得る現代の会社員です。 上述の奴隷制度は何しろ紀元前のものなので、当時の奴隷と現代の会社員では様々なことが異なります。 最大の違いは、古代の奴隷には人権がなく、現代の会社員には人権があることです。 奴隷の生殺与奪は主人が握っており、奴隷は主人の意思で殺されることさえありました。 現代でそのようなことは通常考えられません。 また、奴隷とは異なり、会社員は給料を得られます。 その他、会社員には職業選択の自由、退職の自由もあります。
ただし、人権以外の違いは表面的なものに過ぎず、実質的にはあまり違いがないことが分かります。
会社員は給料を得られるといっても、通常そのほとんどは生活費に消えます。 奴隷は主人の家に住み、主人から食事も振舞われました。 つまり、働き続けるための衣食住が主人から提供されました。 これが奴隷にとっての労働の対価であり、事実上の給料といえます。 そうであれば、もらった給料のほとんどが生活費に消える現代の会社員と実質的な違いはありません。
会社員には職業選択の自由があるといっても、大半は望んでもいない仕事を強制され、その仕事をこなさなければ生活できません。 また、辞令一つで他部署への異動や遠方への転勤を余儀なくされます。 住む場所も実際には自由に決められず、家賃や通勤時間の制約の中で決めざるを得ません。 特に日本の住居は外国からウサギ小屋と揶揄されるほど狭いことで有名です。 これでは、主人の家に住む奴隷よりも一概に素晴らしいとは言えません。
会社員には退職の自由があるといっても、そもそも辞めたら生活ができないのですから、他の会社で働くことになるだけです。 会社を辞めることはできても、会社員であることは辞められません。 これでは、奴隷から解放されて自由の身になれた解放奴隷の方がむしろマシであるとも言えます。
その他の点でも、会社員は奴隷と良く似ています。 基本的に自分以外の誰かのために働くこと、仕事の種類が簡単なものから医師等の高度なものまで大変幅広いこと、奴隷の子供が自動的に奴隷となったように、会社員の子供もたいていは会社員になること、条件さえ揃えば合法的に「解放」されること等々です。 最後の点は、むしろかつての奴隷の方が容易だったかもしれません。
【補足】奴隷と同じく、会社員の子供もたいていは会社員になります。 会社員は原則として株主を始めとした他人のために働きますが、それ以外にも家族のために働き、次世代の労働者を生産して社会に供給しなければなりません。 種族としての労働者を絶やさないこともまた彼らの大切な仕事だからです。
筆者の理解では、現代の会社員は古代の奴隷と似ているというより、むしろ進化した奴隷なのだと思います。 地球標準の経済システムは長らく資本主義であるため(参照:2-1. 地球上の経済システム)、もちろん奴隷は資本家に有利な方向に進化しています。
上述のとおり、古代ローマの奴隷は高級品でした。 さらに、奴隷を買えば彼らの衣食住の面倒を見なければならず、維持費がかかりました。 仮に買った奴隷がすぐに死んでしまったり、逃げてしまったりしたら、主人の丸損になります。 これは、奴隷の労働力と奴隷本体がワンセットであるためです。 奴隷は、自分自身と自分が持っている労働力もろとも主人に捧げなければなりませんでした。 労働力と本体がワンセットだった、という点が非常に重要です。 考えてみれば、主人が本来欲しいのは労働力だけであり、奴隷本体は副作用のように嫌でもくっついて来てしまうモノに過ぎません。 この本体のせいで維持費が嵩み、死亡リスクや逃亡リスクを抱え込むのです。
おそらく人類(のうち資本家)はどこかの時点で、本当に必要なものは人間の労働力であり、人間の身体、つまり本体そのものは不要であること、そしてこれら2つは切り離せることに気が付いたのでしょう。
現代の資本家は、労働者本人を買うのではなく、労働者の労働力を「時間買い」して働かせます。 労働者の立場から見れば、会社に自分自身を売るのではなく、自分の時間を売っているのです。 現代では人権の概念があるため、一般的に人間を買うことなどできず、労働力はあくまで労働者本人のものです。 そう言われれば聞こえは良いですが、これにより現代の資本家は、昔の主人が余儀なくされていたような奴隷本体の維持からは解放され、必要な労働力だけを切り離して手に入れることができるようになりました。 仮に労働者が死んでしまったり、逃げてしまったりしても、その時点で給料の支払いが不要になるだけです。
つまり、古代の奴隷は主人に「所有」されましたが、現代の奴隷である会社員は、資本家である株主から会社を介して「レンタル」されるようになったのです。 この意味で、現代の会社員は昔の奴隷の進化形態であり、資本家にとってより都合の良い存在になったと言えます。 更に都合が良いことに、現代の会社員は自分が奴隷であるという自覚さえほとんどありません。
本章では、はるか昔から現代に至るまで、地球全体で資本家が労働者をピンハネするシステムが脈々と生き続けていることを見てきました。 この資本主義のシステムは、好むと好まざるとにかかわらず、徹底して資本家のために存在しています。 労働者は資本家のためにピンハネされる存在に過ぎません。 本サイトの内容が、かつての奴隷が成し得たように、労働者という現代の奴隷からの「解放」を果たすための一助になれば嬉しく思います。